宇沢 弘文 『「成田」とは何か-戦後日本の悲劇』を読んで。
今日読んだ本は『「成田」とは何か-戦後日本の悲劇』(岩波新書)という本。
(すみません。表紙の撮影を忘れていました。)
本当はレポート作成のための一資料としか考えていなかったのですが、一応読破したことですし、ここに記録に残しておこうと思います。
簡単に中身を紹介
本の題名にもあるように、この本のテーマは成田、特に成田空港の開発における問題点を描いています。今はそれほど成田空港を巡る問題はあまり表面化していませんが、実は空港周辺を歩いてみると、当時の空港建設までのいざこざが垣間見られるんですよね。実際、昔は空港の施設に入るときにはパスポートをチェックするゾーンがもうけられていましたし、今でも周辺、特にB滑走路の南側は監視カメラが数多く設置されています。(ちなみに東峰神社という神社が滑走路のすぐそばにあり、そこは厳重な警戒がされているそうな。)
では、本題に入りましょう。
成田空港の建設は羽田空港がパンク寸前であるという名目で推し進められました。
現空港は土地の一部は皇族が保有していたこと、なだらかな平地が続いていたこと、周辺に当時の国務大臣(川島正次郎氏)の経営していたゴルフ場が近くにあったことから選ばれました。しかし、その建設の是非に関しては、地域住民への説明が全くされていませんでした。一部の人々だけで物事を決定するこの決定が、その後両者の関係をぎくしゃくさせることになります。
事前の説明がなかったこと以外にも、住民の反対理由は2つありました。1つめに、土地を失うと、これまで続けてきた農業ができなくなるということです。建設の話が浮上した時代、成田市の50%の世帯は農業によって生計を立てていました。土地を売ってお金を得られても、そのお金はやがてなくなります。彼らにはお金よりも土地のほうが大事なのです。2つめに、成田空港が軍用基地としても使用されるという不安がありました。当時は1950年代で、アメリカはベトナムと戦争中でした。実際、羽田空港では米軍の兵員や物資を輸送する飛行機が行き来していました。米軍の飛行機がばんばん飛んでくるような飛行場を喜んで受け入れる人はほとんどいないといってもいいでしょう。
従って住民は国や県、公団に対して土地の売却を渋ります。その際、公権力側が取った行動は、土地収用法にもとづく強制代執行です。国側は成田空港の建設は「公共の利益」になるとして、その合理的理由から未買収の土地までも収用したのです。この際、機動隊と反対住民・反共闘が激しく対立し、死人が出るほどの争いとなりました。
結果として、成田空港はなんとか開港の運びとなりましたが、計画と比べてその空港の完成度は大きく下がってしまいました。建設した範囲は工事の1期にあたる部分だけ。予定では3本の滑走路を建設する予定が1本のみ。都心とのアクセスを結ぶ公共交通機関は未完成。そしてジェット燃料を鉄道で輸送しなければならなかったなど、成田空港は日本最大の空港の割には様々な問題点を抱えての開港となりました。
この後に行われることになった工事の第2期は、さすがに住民の意見を取り入れての実施となりました。住民を交えた公聴会の開催は建設計画が決まってから実に20年後のことです。90年代になってようやくまともな国と住民の話し合いがもうけられたということです。
最後に
結論としていえば、成田空港の問題は今ではとても起きそうにはなさそうにない出来事が含まれているので、現代のニュースを理解するのには必ずしも必要がない知識かもしれません。
ですが、環境アセスメントの重要性、そして空港が周辺住民に多大な社会的費用を背負わせることになることは学べるのではないかと思います。特に、社会的費用の集中という問題、今の沖縄の基地問題を考える際には役に立ちそうな気がします。
そんなこんなで、この本は開発を巡る問題について考えさせてくれる本でした。少しでも誰かの参考になれば、幸いです。
それでは。
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